沖縄の小学校に米軍機墜落 50年
2009年02月01日 04:34
宮森小学校への米軍機墜落から今年で50年です。
4年前、運が悪ければ同じ体験をしたかもしれなかった者として、とりあげておきます。
沖縄の小学校に米軍機墜落 50年
http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000110901300001
2004 年8月13日(金)、沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落・炎上しました。
http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/fall_incident/index.html
私が伝えられるのは、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故のほうなので、何回もこのブログで触れていますが、こういう区切りの時には書かせてもらいます。
私は事故の際、現場から50メートルほどの仕事場店舗の外におり、後ろで破裂音が聞こえ振り向くと、沖国大校舎と同程度の高さの火柱が立ち上がっていました。
すぐに携帯から119番しながら小走りで現場に向かい、火柱までおよそ5メートルの位置まで近づきました。
「HELP ME! HELP ME!!」
繰り返し叫ぶ声が炎の中から聞こえましたが、個人の手では消しようの無い業火の前に、立ち尽くすばかりでした。
何か出来ることはないか。
必死に考えました。助けに入るか・・・考えはしました。しかし、近づくのは5メートル程度で限界でした。それ以上は熱気と軍用機であることからの爆発の危険に対する恐怖に勝てませんでした。
自分では解決しようがなく、周りを振り返っても・・・・一番近くの人は10メートルも離れてました。
今振り返ってみれば当たり前です。爆発したら5メートル離れていても死にかねませんからね。
私が炎の前で一人でオロオロしているうちに、ヘリの乗務員2名が自力で出てきました。
それからまもなく米兵達が普天間基地のほうから走ってくるのが見えたので、私は現場を後にしました。
一ヵ月後くらいだったかな、墜落事故の影響で、精神的に調子がおかしかったので、心療内科へ一度相談に行きました。
後日、その診療費について防衛庁にかけあいましたが、日本からも米国からも、補償されることはありませんでした。
何もしてくれないんだなあ・・・。強く感じました。
米軍ヘリの部品の一部に放射性物質が含まれており、それが事故時に燃焼した可能性が高いと推測され、事故当時の消防隊員には放射能関連の検査が行われました。
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/heri20040909_1.html#3
消防隊員が現場についたのは、墜落後5分程度経ってからです。
その5分間、私はヘリの一番近くにいました。
消火にあたった消防隊員に被爆の危険性があったのなら、それより前に現場にいた私の被爆の可能性を考えるのは、ごく当たり前だと思います。
ニュースで消防隊員に放射能の検査を行ったことがとりあげられたのを見て、市役所や防衛庁に問い合わせを行いました。
事故当時の私の状況を説明し、放射能の検査を受けられないか、お願いしてみました。
消防隊員の検査結果に問題がなかったため、予定は無いとのことでした。
消防隊員が来たころには、放射性物質は燃焼して無くなっていたかもしれないのです。
じゃあそれ以前に現場にいた私はどうなのか、答えは明白です。被爆の可能性が無いとは言い切れないのです。
それをたいした検討もせずに、電話口で「検査は行わない」と即答してきた対応に強い怒りを感じましたが、すでに治療費の件で何もしてくれない役所に対して、あきらめの気持ちが強く、それ以上話を続ける気にはなりませんでした。
あれから4年半。
私にも、消防隊員にも、大学関係者にも、放射能の影響で健康を害したような話は全くありません。
取り越し苦労だったと判断しても、もう良いでしょう。
しかし、あの当時の宜野湾市の対応、防衛庁の対応、そして米軍の対応を私は一生忘れません。
有事の際、米軍は日本人を守りません。
そして悲しいことに、日本も日本人である私を守ってはくれませんでした。
自分のことは自分で守るしか無い。強く感じました。
きっとまたいつか起こるでしょう。
反省として、糧として、生かそうという姿勢があるならば、私に対しての対応も違ったはずですが、それが見られないのだから、つまり反省していないのでしょう。
何も変わっていないのです。50年前も、4年前も、そしてこれからも。
4年前、運が悪ければ同じ体験をしたかもしれなかった者として、とりあげておきます。
沖縄の小学校に米軍機墜落 50年
http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000110901300001
2004 年8月13日(金)、沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落・炎上しました。
http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/fall_incident/index.html
私が伝えられるのは、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故のほうなので、何回もこのブログで触れていますが、こういう区切りの時には書かせてもらいます。
私は事故の際、現場から50メートルほどの仕事場店舗の外におり、後ろで破裂音が聞こえ振り向くと、沖国大校舎と同程度の高さの火柱が立ち上がっていました。
すぐに携帯から119番しながら小走りで現場に向かい、火柱までおよそ5メートルの位置まで近づきました。
「HELP ME! HELP ME!!」
繰り返し叫ぶ声が炎の中から聞こえましたが、個人の手では消しようの無い業火の前に、立ち尽くすばかりでした。
何か出来ることはないか。
必死に考えました。助けに入るか・・・考えはしました。しかし、近づくのは5メートル程度で限界でした。それ以上は熱気と軍用機であることからの爆発の危険に対する恐怖に勝てませんでした。
自分では解決しようがなく、周りを振り返っても・・・・一番近くの人は10メートルも離れてました。
今振り返ってみれば当たり前です。爆発したら5メートル離れていても死にかねませんからね。
私が炎の前で一人でオロオロしているうちに、ヘリの乗務員2名が自力で出てきました。
それからまもなく米兵達が普天間基地のほうから走ってくるのが見えたので、私は現場を後にしました。
一ヵ月後くらいだったかな、墜落事故の影響で、精神的に調子がおかしかったので、心療内科へ一度相談に行きました。
後日、その診療費について防衛庁にかけあいましたが、日本からも米国からも、補償されることはありませんでした。
何もしてくれないんだなあ・・・。強く感じました。
米軍ヘリの部品の一部に放射性物質が含まれており、それが事故時に燃焼した可能性が高いと推測され、事故当時の消防隊員には放射能関連の検査が行われました。
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/heri20040909_1.html#3
消防隊員が現場についたのは、墜落後5分程度経ってからです。
その5分間、私はヘリの一番近くにいました。
消火にあたった消防隊員に被爆の危険性があったのなら、それより前に現場にいた私の被爆の可能性を考えるのは、ごく当たり前だと思います。
ニュースで消防隊員に放射能の検査を行ったことがとりあげられたのを見て、市役所や防衛庁に問い合わせを行いました。
事故当時の私の状況を説明し、放射能の検査を受けられないか、お願いしてみました。
消防隊員の検査結果に問題がなかったため、予定は無いとのことでした。
消防隊員が来たころには、放射性物質は燃焼して無くなっていたかもしれないのです。
じゃあそれ以前に現場にいた私はどうなのか、答えは明白です。被爆の可能性が無いとは言い切れないのです。
それをたいした検討もせずに、電話口で「検査は行わない」と即答してきた対応に強い怒りを感じましたが、すでに治療費の件で何もしてくれない役所に対して、あきらめの気持ちが強く、それ以上話を続ける気にはなりませんでした。
あれから4年半。
私にも、消防隊員にも、大学関係者にも、放射能の影響で健康を害したような話は全くありません。
取り越し苦労だったと判断しても、もう良いでしょう。
しかし、あの当時の宜野湾市の対応、防衛庁の対応、そして米軍の対応を私は一生忘れません。
有事の際、米軍は日本人を守りません。
そして悲しいことに、日本も日本人である私を守ってはくれませんでした。
自分のことは自分で守るしか無い。強く感じました。
きっとまたいつか起こるでしょう。
反省として、糧として、生かそうという姿勢があるならば、私に対しての対応も違ったはずですが、それが見られないのだから、つまり反省していないのでしょう。
何も変わっていないのです。50年前も、4年前も、そしてこれからも。